ワークショップ体験記
モノ ☆☆☆
身体 ☆☆☆
心的イメージ ★★★
タグ:オノマトペ、工作、変換、表現
[必要なもの]紙、ペンや絵筆、絵の具などの画材
[人数]4人~
[時間]60分
[難易度]☆★★
[やってみよう]
(1) 身の回りの好きな触感を持つものを選ぶ.
(2) その触感を言葉にする.
(3) その触感を絵にする.
[体験ノート] 今目の前にある触感を表現しようとしても,どうにも答えようがないことがよくある.触覚研究者の常套句は、「触ればわかる」.裏を返せば,研究者自身も目の前の触感をどう伝えるべきかわからない,というのが本音だ.途方に暮れているのである.
永原さんが2013年のテクタイルワークショップで興味深いことを話していた.一度,ある人によってエンコードされた触感は,そのまま伝えるよりもデコードした方がわかりやすい,という内容だ(コラム:永原康史:触覚と表現).例えば,つるつるという触感は,一度モノに直した方が結局はその触感が伝えやすい,というものだ.
現状ではその通りだろう.触感の表象から触れるモノという実体に戻っているのだから,伝わるのは当然だ.この指摘が残酷なのは,多くの人が共有している触感の表象はごく単純な事例を除いて存在していない現実を暗に意味している点だ.
いったい,触感をモノ以外で伝えるときに起こる問題の所在はどこにあるのだろう.1つの可能性は触感をモノから切り離したときに,そのエンコードの方法がその人の中にしか存在しないことだ.あなたが言っているツルツルの基準は,私のツルツルの基準とは違う.だから,言葉で伝わった触感はちょっとずつズレてゆく.それを視覚や聴覚情報で補うことで,より正確な表現を目指す.
触感を共有する別の方法として,エンコードされて言葉になった触感を,デコードするプロトコルをできるだけ共有する工夫をするのはどうだろう.触文化の創造というのは,このような一種の「共通言語」を作ることに相当する.ここで体験したワークショップは,よい触感エンコーディングのプロトコルを見つける演習と言うことができるだろう.
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触覚ディスプレイの普及は触感共有の1つの解だろう.摩擦力,加速度,静電気,経皮電流に代表される物理量を適切に制御して,触覚の再現が試みられている.工学を基盤とする研究者はこぞって触覚ディスプレイを開発してきていて,その可能性は今でも多くの人を魅了している.問題は,触覚ディスプレイの導入には少なくないコストがかかってしまうことだ.
-- 絵画表現をヒントにもう少し考えてみる.デザイナーのブルーノ・ムナーリ(1907- 1998)は著書「太陽をかこう」の中で太陽の描き方が1つではないことを示している.様々な色,形,ペンやクレヨン,紙などの画材で違った太陽が表現できることを示した.太陽のあの感じは,決してお日様マークだけで表現できるものではない.日本の木漏れ日から見える太陽と,ハワイで浴びる太陽は違った描き方ができるはずだ.
触感も同じはずだ.この私の目の前にあるツルツルした素材は,言葉ではツルツルになってしまうけれども,肌のツルツルとは違う.それは絵に描いた方がその違いが明らかだ.
ブーバ・キキ問題
どうやら,触感のブーバ・キキ問題は,視覚的な問題のようである.2014年,触感のブーバ・キキ問題をあつかった論文が出版された.世の中で知られているブーバ・キキ問題は視覚的なものだ.丸みを帯びた線画と,とんがりがたくさんある線画があったときに,どちらか片方がブーバで,どちらかがキキだ,と言われる.そうすると,たいてい,丸みを帯びた線ががブーバで,とんがったほうがキキだと多くの回答者は答える,というものだ.言われてみるとそんな気もするし,そう納得してしまいそうだ.
ブーバやキキに対応する触感の形があるかというと,そうは言い切れない,という結果が出ていた.この研究では,生まれながらにして目が見えない人,後天的に目が見えなくなった人,目が見える人の群で,ブーバ・キキに対応する触覚形状を選ばせるというタスクを行ってもらった.その結果,先天的に目が見えない人は丸みを帯びた形状ととんがり形状の触覚に対して,ほぼ50%の確率でブーバ・キキの名前を割り当てたが,目が見えたことがある人はそうではなかった,という結果だ.このことから,触覚におけるブーバ・キキは,結局視覚的な問題に帰着できるという結論だ.でも僕はちょっとこの結果をすんなりとは受け入れられないなと思う.ブーバ・キキという言葉がまず視覚的な要素と結びつきやすい,というのが1点目,触感を言い当てる言葉が十分に開発されていないというのが2点目だ.ここで言われている実験は,視覚に寄っていて,触覚にはあまり見方をしていない.
[参考文献] Fryer L, Freeman J, Pring L. Touching words is not enough: how visual experience influences haptic-auditory associations in the "Bouba-Kiki" effect. Cognition. 2014 Aug;132(2):164-73.
永原さんが2013年のテクタイルワークショップで興味深いことを話していた.一度,ある人によってエンコードされた触感は,そのまま伝えるよりもデコードした方がわかりやすい,という内容だ(コラム:永原康史:触覚と表現).例えば,つるつるという触感は,一度モノに直した方が結局はその触感が伝えやすい,というものだ.
現状ではその通りだろう.触感の表象から触れるモノという実体に戻っているのだから,伝わるのは当然だ.この指摘が残酷なのは,多くの人が共有している触感の表象はごく単純な事例を除いて存在していない現実を暗に意味している点だ.
いったい,触感をモノ以外で伝えるときに起こる問題の所在はどこにあるのだろう.1つの可能性は触感をモノから切り離したときに,そのエンコードの方法がその人の中にしか存在しないことだ.あなたが言っているツルツルの基準は,私のツルツルの基準とは違う.だから,言葉で伝わった触感はちょっとずつズレてゆく.それを視覚や聴覚情報で補うことで,より正確な表現を目指す.
触感を共有する別の方法として,エンコードされて言葉になった触感を,デコードするプロトコルをできるだけ共有する工夫をするのはどうだろう.触文化の創造というのは,このような一種の「共通言語」を作ることに相当する.ここで体験したワークショップは,よい触感エンコーディングのプロトコルを見つける演習と言うことができるだろう.
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触覚ディスプレイの普及は触感共有の1つの解だろう.摩擦力,加速度,静電気,経皮電流に代表される物理量を適切に制御して,触覚の再現が試みられている.工学を基盤とする研究者はこぞって触覚ディスプレイを開発してきていて,その可能性は今でも多くの人を魅了している.問題は,触覚ディスプレイの導入には少なくないコストがかかってしまうことだ.
-- 絵画表現をヒントにもう少し考えてみる.デザイナーのブルーノ・ムナーリ(1907- 1998)は著書「太陽をかこう」の中で太陽の描き方が1つではないことを示している.様々な色,形,ペンやクレヨン,紙などの画材で違った太陽が表現できることを示した.太陽のあの感じは,決してお日様マークだけで表現できるものではない.日本の木漏れ日から見える太陽と,ハワイで浴びる太陽は違った描き方ができるはずだ.
触感も同じはずだ.この私の目の前にあるツルツルした素材は,言葉ではツルツルになってしまうけれども,肌のツルツルとは違う.それは絵に描いた方がその違いが明らかだ.
ブーバ・キキ問題
どうやら,触感のブーバ・キキ問題は,視覚的な問題のようである.2014年,触感のブーバ・キキ問題をあつかった論文が出版された.世の中で知られているブーバ・キキ問題は視覚的なものだ.丸みを帯びた線画と,とんがりがたくさんある線画があったときに,どちらか片方がブーバで,どちらかがキキだ,と言われる.そうすると,たいてい,丸みを帯びた線ががブーバで,とんがったほうがキキだと多くの回答者は答える,というものだ.言われてみるとそんな気もするし,そう納得してしまいそうだ.
ブーバやキキに対応する触感の形があるかというと,そうは言い切れない,という結果が出ていた.この研究では,生まれながらにして目が見えない人,後天的に目が見えなくなった人,目が見える人の群で,ブーバ・キキに対応する触覚形状を選ばせるというタスクを行ってもらった.その結果,先天的に目が見えない人は丸みを帯びた形状ととんがり形状の触覚に対して,ほぼ50%の確率でブーバ・キキの名前を割り当てたが,目が見えたことがある人はそうではなかった,という結果だ.このことから,触覚におけるブーバ・キキは,結局視覚的な問題に帰着できるという結論だ.でも僕はちょっとこの結果をすんなりとは受け入れられないなと思う.ブーバ・キキという言葉がまず視覚的な要素と結びつきやすい,というのが1点目,触感を言い当てる言葉が十分に開発されていないというのが2点目だ.ここで言われている実験は,視覚に寄っていて,触覚にはあまり見方をしていない.
[参考文献] Fryer L, Freeman J, Pring L. Touching words is not enough: how visual experience influences haptic-auditory associations in the "Bouba-Kiki" effect. Cognition. 2014 Aug;132(2):164-73.